神社仏閣巡り「寺社参詣シリーズ」第51回目は、兵庫県西宮市、六甲山地の東に、少し離れてぽつんと聳える甲山の麓にある、真言宗御室派別格本山、甲山神呪寺です。 「神呪寺」という名前を見ると、「神を呪う」という、何とも穏やかではないように感じますが、さにあらず。 背後にある甲山が「神の山」として信仰されてきたことから、「神の寺(かんのじ)」と呼ばれていたと言われています。また、「呪」という文字は、仏教では「真言」「マントラ」などの意味とされています。(般若心経の一節「・・・是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦真実不虚故説 般若波羅蜜多呪即説呪曰」で頻繁に出てくる「呪」は、この後に続く「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」という「呪」(呪文的な意味合い)のことを指しています。) 創建は、淳仁天皇の時代。淳仁天皇の第四后だった真名井御前で、後に出家して如意という僧名になりました。 真名井御前は、10歳の時に京都・頂法寺六角堂で如意輪観音に帰依。この時弘法大師空海と出会って、その後の彼女の人生に大きな影響を与えます。 弘仁13(822)年、真名井御前20歳の時に、淳仁天皇に見初められて第四后として宮中に迎え入れられ、淳仁天皇の寵愛受けましたが、後宮たちの激しい嫉妬に無常を感じた真名井御前は、わずか6年で宮中を出て、甲山へ逃げ込み草庵を結びます。(一説によると、このとき空海が逃がした とも言われています。) この時が神呪寺創建と時とされていますが、その後真名井御前は空海から伝法灌頂への入壇を許され、阿闍梨の称号を得ます。そして、天長8(831)年に本堂が落慶。同時に真名井御前は落飾し、僧名を如意としました。 如意尼は、昼夜を問わず念誦に励んだと言われていますが、承和2(835)年3月20日、師である空海が居る高野山の方を拝み、如意輪観音の真言を唱えながら遷化。33年の生涯を閉じました。空海が入定される前の日のことです。 神呪寺はその後盛衰を繰り返してきましたが、源頼朝によって再興。戦国時代には戦火によって荒廃し、なおかつ豊臣秀吉によって寺領を没収されるという災難に遭います。 寺は、麓の神呪村(現在の阪急甲東園駅付近)に遷り、元の場所へ戻ることを願い出ていましたが、元の場所へ戻ることが叶ったのは、江戸時代に入ってからになります。 本尊は、如意輪観世音菩薩で、元は本堂落慶の時、空海が神木である桜から彫り出したもので、如意尼と同じ身長、同じ容姿になるように作られたと言われています。現在のものは、10世紀~11世紀にかけて作られたものであることがわかっていますが、姿形は空海が作ったものを模している と言われています。この如意輪観音は、大阪府河内長野市の檜尾山観心寺、奈良県宇陀市の宀一山室生寺とともに、日本三大如意輪観音のひとつに数えられています。 境内は、山門からの参道を市道甲山大師線が横切っているためか、山門だけが離れた場所にあるという印象を受けます。そこから石段を登っていきますが、正面には常に甲山が見えていてます。 伽藍は、西から大師堂・弁天堂・本堂・不動堂・観音堂と並んででおり、さらに観音堂の奥には多宝塔と、甲山稲荷大明神などの祠が並びます。そこから、甲山への登山道が延びており、シーズンになると参詣客に交じって多くのハイカーたちの姿も見えます。 また、境内にある展望台からは、宝塚~伊丹~西宮から、大阪方面へ開けていて、甲山に登らなくても、大阪平野を一望することができます。 神呪寺の近くには、県立甲山森林公園や北山緑化植物園などがあり、また六甲山からのハイカーたちも多く、オンシーズンには大変賑わいます。 空海を慕った如意尼が、空海を想いながら入滅した地、神の山・甲山の麓に伽藍を構える、真言宗御室派別格本山 新西国三十三箇所第21番札所 甲山神呪寺の動画をご覧下さい。 機 材:GoPro HERO8 【リンク】 "甲山大師"神呪寺 公式Webサイト http://www.ne.jp/asahi/kabutoyama/kanno-ji/ 【使用BGM】 「秋の野を行く」(甘茶の音楽工房) https://amachamusic.chagasi.com/ #神社仏閣巡り#神呪寺#兵庫県西宮市#お寺ガイド#真言宗御室派#パワースポット#新西国三十三箇所#お寺巡り

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